NNNの日記

ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放った紙屑に書かれたような誰も読むはずのない文章

「積読を消化する」という合理化の波について

ここ2年くらいで、読書量がガクンと落ちてきた。

以前はたくさん読まないとと思って読んでたけど、前に進まなきゃと追い立てられるように、合理的・効率的に行うように、読書ってするものじゃないなと思って、そんなに頑張らなくてもいいと思ったこともある。

合理的・効率的に本を読もうとする人は、ビジネス書とか読むような人ならいいと思うけど、僕はそういう本は興味ない。

いわゆる積読という言葉も、なんとなく本を消化しようとするような、合理的・効率的な観点から生まれた言葉のような気がして、最近は好きになれない。

2022年2月27日

27日、ウクライナ情勢はいまだ収束が見えていない。

日本の、青森県の片田舎に住む僕は、国際情勢はまるでメディアの中だけで繰り広げられているだけで、自分たちの周囲には無関係であるかのように、当たり前の生活を日々営み続けている。

こんな平和な日常でも、贅沢は我慢して生活費を気にしながら月給稼いだり、仕事で理不尽なことを言われて腹が立っても我慢したり、生活を営むことは決して楽なものではない。

仕事は、気を抜くと濁流に流されるように這い上がれなくなるし、仕事がなくなると家族を食べさせることができない。

だからなにがなんでもしがみついて仕事するしかないし、仮に上司にいじめられたりしてメンタルを崩しそうになったら、崩しそうしなる前にこちらがブチ切れるしかない。もちろんブチ切れたりする前に、しっかり予防線を張っておくべきだが。平和な世界でも、日常の中で個人は戦争をしている。

 

日曜日。朝は遅く起きて、長女が起きてからすぐに僕も起きて、トーストを焼いてマーガリンを塗って食べさせる。僕もトーストを食べて、コーヒーを淹れて飲んだ。

妻と長男はその30分後くらいに起きて、あと2人分のトーストを焼いて、長男にトーストを食べさせるのは妻に任せる。

長女とこどもチャレンジの一月号のワークをやる。もう三月号まで届いているのに、一月号に手をつけてないということで、一月号のワークを40分ほどかけて最初から最後まで一気にやる。長女は引き算の概念をまだ理解していない感じだった。

お昼に蕎麦を煮て、細切りのネギを麺つゆに入れて水で希釈して温めて、乾燥の天ぷらと、卵の黄身を入れて食べた。

午後は子供達だけを連れて外の空気を吸いに行った。ゲームセンターでメダルゲームを100円分ずつやり、お菓子を100円分ずつ買って食べて、本屋で絵本とかを眺めるだけ眺めてから帰ってきた。

疲れたから夕方まで寝た。妻は買い物に出かけたがまだ帰らず、冷蔵庫がすっからかんで夕食の支度もできなかったから、ワイシャツを洗った。

妻が食材を抱えて帰ってきたので夕食を作った。惣菜の豚カツを、玉ねぎとにんじんと卵をとじてカツ丼にした。もやしを2袋、きゅうりを2本使ってもやしナムルを作った。キャベツの味噌汁は昨日の残り。夕食を作りながら、金麦を2本飲み終わった。今日は2本で終わった。

ちなみに昨日は休肝

シャワーを浴びて、子供と絵本を読んで、おやすみを言って電気を消してから、これを書いた。

 

そんな平和な休日だった。平和とは当たり前の日常であり、当たり前の日常とは、ほとんど特に代わり映えのしない生活だ。

だとしたら、そのほとんど特に代わり映えのしない生活の中で、ほっとするときこそが幸福なのだと実感している。

ビールを飲むとき、コーヒーを飲むとき、子供とじゃれ合うとき、音楽を聴くとき、静かに本を読むとき。

青空の元で澄んだ空気を吸い込んだり、木々の葉っぱを見上げて、季節の移り変わりを感じるとき。

自然を愛でることは、資産や階級に関係なく、誰にでもできることだが、みんなができることではない。

高い金を払って海外旅行に行くのが幸福だと思う人が旅先の景色を見たときに感じる幸福と、僕みたいにお金がなくて旅行に行けないけど、近所の公園とかに行ったときに季節の移り変わりを感じる幸福は、実は全く同じことだと思う。

最短距離で幸福を手に入れるためには、そういう感覚が必要だと思う。

 

2022年2月26日

24日朝にロシアのウクライナ侵攻のニュースを新聞一面の大きな見出しで見てから、ツイートする言葉が見つからなかった。この戦争についてなにをいったところで空虚に響くような気がしたし、別なことをつぶやくと不謹慎に思えて。

でもひとつだけ、シンプルに確実なことが言えたことに気がついた。


戦争反対。


世界中が悲嘆に暮れている。

ウクライナの人々は、疎開により家族が離れ離れになって涙している。疎開先へのバスに乗る小さな娘を、父親が抱きしめながら泣いていた。

ウクライナの女性がロシア兵に「なにしに来たの」と問いかけてながら、ひまわりの種を渡そうとした。そこでロシア兵が死ぬと、ひまわりが生えるからと言った。

ロシア国内でも戦争に反対するデモが起きている。「ウクライナの人たちに謝りたい」と。

独裁者が戦争をすることで、命が失われたり、人生が台無しになったりする。

こうして現実に戦争を目の当たりにして、改めて戦争はしてはいけないものなのだと実感している。これ以上、状況が悪化しないことを祈っている。

あこがれ

中学生のころからずっと、ギター2本、ベース、ドラムの4人組ロックバンドへの憧れが強かったわけだが、30代になったくらいからはそれが薄れてきて、ピアノに憧れを持つようになった。

僕がロックバンドを好きだったのは、そのサウンドだけではなく、4人組ロックバンドの佇まいに強く惹かれていたのかもしれない。今はもう、その佇まいが青臭く感じてしまい、憧れが薄れてしまった。


ほぼ同時期に、4人組ロックバンドの代わりに野球が好きになった。野球のバット、ボール、グローブ、ヘルメット、応援バッド。野球に関するものなら何にでも胸をときめかせられている。それは4人組ロックバンドに胸をときめかせていたのと似ている。

野球だって青臭いと思われるかもしれない。しかし自分がなにを好きになるのかなんて、自分にも全く理由が分からないものだ。

2022年2月21日

22時過ぎ、仕事帰りに二車線の県道を車で走っていると、南の空に雲に隠れたおぼろ月が浮かんでいるのが見えた。ほとんど雲に隠れていたので、空の裂け目が橙色に燃えていて、この世ならざるものだった。今夜でもう世界が終わるのではと思った。緩やかに道が曲がり、フロントガラスからは一度月が見えなくなる。無意識にハンドルを切って道なりに走ると、今度は正面から大きな月が見えた。これまでどおり、これからも当たり前のように世界は続いていくのだと思って、ほっと胸を撫で下ろした。

2022年2月15日~ 政治的・社会的諸条件との関連におけるパワハラ上司~

バートランド・ラッセルの西洋哲学史Iを図書館から借りてきた。

3ページほどの原著者まえがきだけは読んだ。その上で、副題の「古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史」というのを見て、「政治的・社会的諸条件」という言葉だけで「はは〜ん」とこの本と関係なく自分の中で思ったことを書く。

 

昨日の日記で、資本主義に毒されて職場の人間関係をダメにしたりパワハラしたりしてまで利益追求するような奴はアカンみたいなことを書いた。


ラッセルはこの西洋哲学史を書くにあたって、先行する哲学者のその思想だけをありのまま書くだけではなく、その先行する哲学者が、属した時代の政治的・社会的背景に浸っていることに無自覚である体で、それらの哲学者を提示しようとした。

 

難しくて何を言ってるか自分でも分かりにくすぎるから簡単に書いてみる。

昨日の僕の日記に結びつけてみると、資本主義に浸りきって、資本主義が当たり前だと思っている人は、金さえ稼げばいいという利益追求だけに目が行って、職場の人間関係とかどうせただの他人だしどうでもいい、部下なんてコマだから人間性や人権はどうでもいい、と思ってるから、平気でパワハラするのかもしれない。

その金さえ稼げばいいとか、職場の人間関係なんてどうせ他人だとか、部下なんてコマだとかが、まさしく現代の政治的・社会的諸条件の一部だろうなという。

なのでそういう自分の今生きる政治的・社会的諸条件というものにいかに自覚的であるかどうかは、自分の思考みたいなものを時代という殻から突き破るためには大事なことだなと思った。

2022年2月14日

日記を書き殴る。

日曜日だけど出勤の日で、22時過ぎに帰ってきて、ビールを3本も飲んでしまった。そして2月14日の24時になろうとしている。

健康を損ねながら、天寿を全うするまでの時間を消費しながら、今という時間を過ごし続けている。

でも健康や寿命を気にして、逆算的に生きるのもどうかと思う。iDeCoだとか貯蓄型保険だとか、そんなものウンザリだと思うこともある。

 

酔いながら書いてる。ブログに書いてるのだから、なにかもっと人に読んでもらうことを書こうと思う。

 

職場の人と今日、夕食を食べながら話したこと。前も似たようなことをこのブログで書いたけど、仕事で正しさという棒を振りかざして攻撃をしてくるような人は、いけない人だと思う。

攻撃ではなく、あまりにも細かすぎる指摘とかも、正しさという棒を振りかざしている気がしている。

日本人は細かすぎて勤勉すぎると諸外国から言われているとか。だからもっと大らかになってもいいんじゃないか。

 

スラムダンクが好きなんだけど、スラムダンクの赤木が、バスケに対する姿勢が熱すぎて、又は勝つことに貪欲すぎて、他の部員に煙たがれた過去が描かれていたけど、僕は仕事に対して、赤木ほど熱くなれてないのかもしれない。

赤木はバスケの試合で勝つことだけを目指していた。だったら、仕事で正しさという棒を振りかざして同僚を攻撃する人は、何を目的にしているのか??

企業利益??顧客満足??

だったら企業利益や顧客満足はなんのために??

豊かさのため??

だったら豊かさとはなんのために??

幸せのため??

幸せのためとはなんのために??

 

もう資本主義マジでなんなんっていう。

戦後の日本社会は、豊かさへの渇望を求め続けてきた。転換していくべき時期じゃない?

青森の片田舎の現場からは以上です。