縄文の土偶について
2021年7月、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産登録され、青森県において一部の界隈では縄文が盛り上がっている。
「一部の界隈」の中にはいないが、僕も縄文には思い入れがある。縄文は歴史の中で一番好きな時代だし、大学生の頃に縄文の講義をとって石器の名前を覚えてテストに臨んだ経験があるし(もちろん今では一つも覚えていない)、小学館の「全集日本の歴史」の第一巻の縄文時代の巻を図書館で借りて読んだこともある(買ってはない)。
全集 日本の歴史 全巻セット
先日、職場の後輩と雑談していて、「縄文の土偶ってなんのために作られたんですかね?」とたずねられたので、縄文好きの僕は以下のように答えた。
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現代の僕たちからみると、縄文人が土偶のように、オモチャみたいな無意味なものを作っていたというのが信じられなかったり、不思議に思ったりする。
発掘されて展示されるものが、石器のように、縄文人の飯の種になっていた実用的なものであれば、その存在を素直に納得できる。
しかし、現代の僕たちだって、無意味なものや無用なものが自分の周囲にたくさんあるし、自分の頭の中や、自分の行動の動機さえ無意味であったりする。僕らはとても多くの無意味に囲まれている。
もしも僕らが実用的なものにばかり囲まれていて、実用的な動機でしか行動できないとしたら、それはロボットと同じで、人間の喜びや幸福はどこにも存在しない。
土偶というのは、何千年も前の人間でも無意味なものを作っていたという意味で、現代の僕たちと変わるところはないのだと、しみじみと実感できるものなのだ。
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上記のようなことを言ったところ、まさかこんなマジレスが返ってくると思っていなかっただろう職場の後輩から、
「めちゃくちゃ頭いいようなこと言うじゃないですか!」
と言われて、仕事でケアレスミスばかりする僕も、仕事とは全く関係ないことだったが、鼻高々になった。