とりとめのない日記を書く。
夏目漱石の「三四郎」を角川文庫で読んでいる。iPhoneのKindleで、無料の青空文庫でダウンロードして読んでいたのだけど、この間近所のTSUTAYAに行ったときに、角川文庫の装丁がかわいらしくて欲しくなったので、つい買ってしまった。
やっぱり結局、Kindleで読むと文量も分かりにくいし、紙の方がいい。
三四郎、それから、門。
三四郎は夏目漱石の初期三部作の一作目。三つとも読んだことがなかったので読んでいる。
まだ読んでる途中なので、作品についての感想は書かない。
代わりに小説についての雑感を書く。
古い時代の小説は、その小説の舞台のビジュアルを知らなければ想像できない。三四郎の舞台は東京で、大久保とか本郷とか、現在と同じ地名が出てくるけど、現在と全く違う風景のはずだ。その風景は資料を調べればわかるとは思うが、とりあえず読みながら想像することになる。その読者の想像と、作者の想像のギャップが大きければ大きいほど、読者は作品が読みにくくなる。作者が文章にわざわざ書いていないものを、読者が補完できないから。
ドストエフスキーの「罪と罰」は19世紀のロシア・サンクトペテルブルクが舞台だし、カポーティの「遠い声 遠い部屋」は1940年台のアメリカの片田舎が舞台で、その風景を知らなければ読みにくい。
その読みにくさを乗り越えつつ作品の核に触れることができたときに、現実では得られない時空を超えた体験を味わえるのだろう…。
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最近僕は、小説よりもノンフィクションが好きだ。
アウシュビッツの地中から70年越しに死者が書き残したメモが見つかったとか、秋葉原事件の犯人の成育歴や事件に至った経緯とか、ノンフィクションやドキュメンタリーが興味深い。
そういう意味合いでの事件が何も起こらない小説は、高等遊民の日常の心情という風情で、最近はあまり好みではない。
現代の日本文学はそういう何も起こらない小説が多いようで、なんとなく興味を失ってきた…。あまり読んでないから分からないけど…。