映画「ドライブ・マイ・カー」感想
ドライブ・マイ・カーという題名のとおりに、真っ赤なSAABという車が映画の中心にあった。
SAABのフロントガラス越しに、移り変わる風景。われわれ観客も、家福と渡利みさきとともに空間を移動する。
美しい瀬戸内の海。音を吸い込むような沈黙を生む北海道の雪。何百万人もの都市生活者の、抱えきれないほどの私情を内包する東京の夜。
感情移入というか、狭い車内をともにすることで、彼らと親密になるような感覚。
そして大切な愛車を持つことの喜びが分かる。「オン・ザ・ロード」のように、単純に空間を移動することの喜びのようなものがあった。
この映画で特徴的なのが、棒読みのセリフ。過多な感情を排除しているというより、もはや感情をほとんどなくして、上手な役者の演技という、映画のレトリックに対するアンチを感じた。役者の上手な演技に頼りたくなかったのかなと。
レトリックを排除して、テキストの本質を浮かび上がらせる、というようなセリフが劇中であったと思うが、そういうことなのだろうか。
また、小津安二郎の作品のような、現代の俳優と比べると下手にも思えるが味のある、あのような演技を思い起こさせた。
まあ、僕の拙い筆力では映画の批評など書けないので、単純に感想を書く。
3時間もの長丁場なので、軽い気持ちで見る映画ではない。見終わったあとは心地よい疲労感があった。
村上春樹が原作なのだが、短編小説の「ドライブ・マイ・カー」を、濱口竜介監督の脚本により繋ぎ目なく引き伸ばされ、脚色されて、村上春樹が原作であることを忘れさせるくらいに、濱口竜介の作品になっていた。
他者を理解することの難しさ。あるいわ不可能性。自己や他者の抱える病。病は誰もが抱えている。
僕だって病を抱えている。自分は抱えていないと思っているような人ほど危険な病を抱えていたりする。病は、風邪を引くくらいに身近に認められるものだと思う。
そうした人間が社会で交錯することで、互いに傷つけたり、傷つけられたりする。それは回避できない。
僕たちがそうした病や傷を回復させるためには、まずはその病や傷から目を逸らさずに見つめることが必要なのだ。
家福は、SAABでの旅時の果てに傷を癒やし、希望を見出す。
失ったものは二度と戻らない。それでも喪失を抱え、それを乗り越えながら、僕たちは生きていくしかない。
家福にとってSAABという愛車と、SAABが人格化したような渡利みさきという旅の相棒がいたことは幸福だった。
いいこともあれば悪いこともある。
自分の人生や自分の病まで炙り出されたような、とても深い映画体験だった。