今は夜中の0時20分で5月27日になったばかりだ。5月27日になったばかりなのに、2022年5月27日という日付を題して日記を書くので、だいぶ観念的な内容になる。
野球が好きになってから、身体を動かすことや、身体そのものの大切さに気づいた。運動に興味が薄かったし、これまではまだ若くて肉体に衰えもなかったので、身体の大切さを軽んじていたのだ。
身体がなければ何もできない。学校や会社に行くこともできないし、本も読めないし、勉強もできない。パソコンの画面を見ることもできない。ハサミで封筒の封を切ることもできない。思考も脳がなければできないかもしれない。ご飯も食べれない。セックスもできない。酒を飲んで酔うこともできない。脳がなければ酔えない。
身体がなければ、本当に何もできない。そんなの当たり前のことだけど、腑に落ちるように深く実感した。
去年、祖父と祖母が亡くなったとき、火葬がいちばん印象深かった。肉体を焼いて骨にすること。肉体は物質にすぎないけど、その物質を焼いてしまうことが、こんなにも残された人を悲しくさせるのだから、肉体そのものは、とても大事なものだと思った。
炉に入れる直前の最期と別れのとき、全員が焼香をして祖母の顔を見たあと、最後にもう一度、祖母の子である叔母と母の姉妹が、祖母の元へ行った。
炉に入れる直前、二度と目を開けることのない祖母の顔を見て、堪え切れずに姉妹は声を上げて泣いた。そして祖母は炉に入った。三時間後、祖母の骨だけが残った。その残った骨を、箸で拾って納骨した。この火葬の儀式で、肉や骨や身体について、とても考えさせられた。
僕はまだ34歳だけど、なんだかもっと歳をとったような気分だ。まだ34歳なのに、もうすでに身体にガタがきはじめている。前立腺炎になったりして、こうやって持病をいくつも抱えながら生きていくのだろうと思った。
長い人生。恥ずかしい思い出や、消したい過去、悔いなどを抱えていない人はいない。身体的な持病もそれと同じようなものだと思う。
ただ、「身体の対に精神がある」という身体・精神の二元論に陥るのも何となく危険な気がしている。僕は運動神経もそんなに良くないし、頭もそんなに良くないので、学生の頃の文武両道のクラスメイトのようになることは、どうやってもできない。
僕は僕のできる範囲で、火葬されるまでこの身体と一緒に生きていく。
何を言いたいかというと、身体を大事にして、酒を飲みたいということです。終わります。