NNNの日記

ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放った紙屑に書かれたような誰も読むはずのない文章

2022年7月17日「弘前れんが倉庫美術館 池田亮司展感想含む」

ルーヴィン・シュタインのショパン夜想曲を聴いてる。静謐な夜を過ごすために、これ以上、夜にぴったりの音楽はない。

朝昼晩、ご飯を作った。

朝はハムとレタスのサンドイッチで、6枚切りのパンにマーガリンとマヨネーズとマスタードをかけて、ハムとレタスをのせて、半分に折って、娘の分と自分の分を作って食べた。

妻と息子が起きてきて、パンがもうなかったから、冷凍ご飯をチンして、目玉焼きを作って、冷蔵庫にあったレタスやほうれん草のお浸しを出した。

一人で外出して、家計関係の支払いなどを済ませてから、近所の本屋に行ってブラブラと本や雑誌を眺めた。

昨日は給料日だったので、新潮文庫ライオネル・ホワイト気狂いピエロ」を買った。

ライオネル・ホワイト、矢口誠/訳 『気狂いピエロ』 | 新潮社

 

昼前に帰ってきて、次は昼食作りに取り掛かった。パスタを茹でて、ニンニクを3斤みじん切りにして、ツナを3缶使って、ツナのパスタを作った。

4人分の400グラムのパスタを茹でて、オリーブオイルとニンニクに茹で汁200グラムを入れ、煮立ったところにツナを入れて、茹でたパスタを投入して塩胡椒をして完成。

冷蔵庫のレタスとミニトマトも出した。

 

子供たちと野球盤とかで遊んでから、疲れたので、パパ頑張ったでしょということで、布団に入って2時間くらい眠った。1週間の疲れを癒した。

 

起きてから、子供達を連れて出かけた。妻は寝ていた。休日はあまり機能しないので不満には思うけど諦めている。「諦めている」という一言で割り切れない思いを抱えているけど、少なくとも今日はここには書かない。僕だってめちゃくちゃ頑張ってるんだけど、と妻にはこのブログの場から言いたい。普段の口論では伝わらないから。

 

子供たちと一緒にダイソーに買い物に行き、朝顔の支柱を買うつもりがちょうどいいのがなく、その代わりに娘は、冷蔵庫に貼れるようなマグネット付きの小さなマジックボードを衝動買いし、息子はチュッパチャプスを1つ買い、セルフレジで3つで100円だったことがわかり、そのせいで会計がスムーズにできなくて店員を呼んでやっと済ませた。

そのあとで、イオンに行ってゲームセンターでコインゲームをそれぞれ100円分やらせ、早く終われと思ったけど、息子のやつを代わりにやったら5枚ベッドして30枚もゲットできたりして、30分くらい費やしてしまった。

そのままイオンのスーパーで白菜ととうもろこしを買った。ドラッグストアで金麦ラガー2本とカティサークを買い、やっと家に帰った。

すぐに夕食を作りにとりかかった。妻はやっと起きて、掃除機をかけてくれた。

白菜と豚コマのうま煮を作った。僕の好きな白ごはん.comのレシピだ。生姜は忘れたから使わなかったけれど、十分美味しくできた。

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妻が子供たちをお風呂に入れた。僕はカティサーク飲みながら音楽を聴いた。

 

カティサークといえば、村上春樹ねじまき鳥クロニクルに出てくるけど、村上春樹は、単にウイスキーと言わずに、わざわざカティサークと書くところが、少しアスペルガーぽくて、それがまた好きだなあと、カティサークを買うときに思った。

 

夜。ぬるま湯に半身浴しながら、AnkerのBluetoothスピーカーを浴室の外に置いて、ダフトパンクの「ランダム・アクセス・メモリーズ」をかけた。少し古いけど、いいじゃないか。

 

話は変わるけど、この間、1人で実家に帰った際に、ついでに弘前れんが倉庫美術館に初めて行って、池田亮司展を見てきた。

池田亮司展 | 弘前れんが倉庫美術館 ー Hirosaki Museum of Contemporary Art

なんらかのデータベースを、抽象絵画のような形としてアウトプットした作品で、SF的でクールでスタイリッシュだった。でも、正直無機質過ぎて一つも感激できなかった。

ダフトパンクのランダム・アクセス・メモリーズは、エレクトロ・ミュージックに、1970~1980年代のディスコやファンクの要素やボーカルもたくさん取り入れて、ただのエレクトロではない有機性を取り入れていた。それがダフトパンク=ロボットが生み出す音楽という設定なのに、存分に情緒を生んでいる。

それに対して、池田亮司の作品は、池田亮司という人間(僕は全くよく知らないですが)が生んでいるにも関わらず、まるでロボットかAIが作った作品とでもいうべきように感じた。正直、感動はできなかった。

ダフトパンクのランダム・アクセス・メモリーズを聴いて、対比的に池田亮司展覧会のことを考えてしまった。

れんが倉庫の建築自体はすごく感動した。地元なので、違う展覧会に何度も行きたい。昔、奈良美智のAtoZという展覧会がそこであって、当時行った。確か僕は高校三年生くらいだった。奈良美智が作ったAtoZの「メモリアル・ドッグ」という、れんが美術館ができるまでは屋外に置かれていたオブジェ作品は、れんが美術館の中のエントランスに置かれていた。メモリアル・ドッグが大切にされていてうれしく思った。

 

だいぶ話がそれた。

風呂から上がり、家族4人でドラえもんドンジャラをやった。3年ほど前に買ったけど、ドンジャラのパイが軽すぎてめちゃくちゃやりづらい。昔のドンジャラのパイはもう少し重かったのでやりやすかった。

ドンジャラを終えて、最後に皿を洗いながら、ルーヴィンシュタインの、ショパンノクターンを聴いた。夜に聴くにはぴったりだ。聴きながらこれを書いている。

平日はもちろん、休日までいろいろ忙しくしていると、書くという行為はとても贅沢なものだと思う。

またオチなしだけど、贅沢だけど疲れたので終わります。

2022年7月9日

昨日、安倍元首相銃撃事件があった。戦後、日本は平和だとか言われていたけど、そんな時期は今まであった試しはないんだと痛感した。山下徹也容疑者の動機の掘り下げは、ジャーナリスティックで文学的な問題になるはず。


安倍元首相銃撃事件は社会や歴史上で起きたことで、僕は自分の生活上でまさに昨日までに起きてることの方が、自分にとってよっぽど重要なので、テレビのニュースや、今朝の各紙朝刊一面の大きな見出しについても、「僕は今それどころじゃない」と思ってしまったほどに、自分個人の問題の方が大きい。

Twitterを覗いてみたら、みんなが安倍元首相銃撃事件のことに触れている。僕がそれに何かつぶやいたところで、何の影響力もなく0.01秒でタイムラインの海に消えていくので無意味だし、つぶやく暇さえなかったから、つぶやかなかった。


いま金麦6本目をプシュッた。

 

キッチンの丸椅子に座り、AnkerのBluetoothスピーカーでキース・ジャレットの「The Melody at Night, with You」を聴きながらこれを書いている。

さっきは浴槽半分しかないお湯に半身浴しながら、 ボン・イヴェールの「For Emma, Forever Ago」を聴いた。どちらも僕の大好きなアルバムだ。


今日の八戸は濃霧が立ち込めて、霧雨がずっと降っていた。濃霧って八戸ではしょっちゅうあるけど、生まれ育った津軽ではほぼ見たことがないから、太平洋側だけなのだろうか。


酔ってるし、取り止めなさすぎる日記だけど終わります。

2022年6月26日

歌はくだらない。歌は言葉がある分、音楽よりも単純になる。今日、午後にレジャーに出かけたとき、行きの車でテキトーなJ-POPをかけて、セカオワとか髭ダンの聴いたことない歌を聴いてたら、そんなの聴きたくないと妻に言われ、あなたは今、福山雅治の「家族になろうよ」を聴くべきだと言われて、聴いたことはあるけど、とりあえずかけてから、違うことを話しかけたら、ブチ切れられたので、後できちんと聴くよと言ったけど、ぐちぐちと言われたので、プッチンして、ブチギレ返したら、妻が信号待ちだったのに車のドアを開けて出て行こうとして、子供がやめて!と叫んだので僕も気がつき、妻の頭をふっ叩いて、大声で怒鳴ったら、収拾つかない怒鳴り合いになった。

レジャーなんてクソだ。歌もクソだ。単純な意味なんて、実際に生きる個人を単純化させるだけだ。

見田宗介の「新しい望郷の歌」を読んだ。家族として目指す地点が、レジャーに行って、就職するまで子供を育て上げて、自分は勤め先の市町村で家を建て、そこを住処として死ぬ?そんなのは嫌だ。「新しい望郷の歌」には、そうした1960年代の家の価値観の転換を書いていた。何も考えずに結婚して子供を作ったけど、今になって色々とのしかかってきている。妻との軋轢も絶えない。

レジャーも歌も、どうでもいい。昨日、子供たち2人と僕だけで、図書館に本を借りに行った。図書館の中庭が木が茂った広場になっていて、そこで子供たちが遊びたいと言ったので、僕はベンチに座り、子供たちは葉っぱを拾ったりどんぐりを拾ったりしてた。娘が、僕なところに来て、大きな葉っぱをベンチに置いて行った、僕はそれを繁々と見た。

強い風が吹いた。木の葉がそよぐ音がした。子供たちは楽しそうに走り回っていた。僕は幸せや喜びを感じた。

人が多いところにレジャーに行って、ソフトクリームを人数分の四つ買って食べて、息子がソフトクリームを落として、怒って、手がベトベトになって、疲れた。運転も疲れた。帰ってからすぐに夕食を作った。些細なことでイライラして、また僕が怒ったら、妻がまた逆ギレしてきて、また大声で怒鳴り合いになった。

疲れた。僕はもう当分、歌なんて聴きたくない。言葉のない音楽を聴きたい。

2022年6月12日

くるり『ワルツを踊れ』がリリースされた2007年、僕は大学2年生だった。2022年6月12日の今日、妻の誕生日会としてチーズタッカルビと、スルメイカのバターポン酢焼きを作りながら、くるり『ワルツを踊れを』を聴いたら、くるりの良さがめちゃくちゃわかった。

ていうか、実は『ワルツを踊れ』の前に、イカを捌きながら、『THE WORLD IS MINE』(2002年)を聴いたら、くるりがやっぱりタナソーとかに評価されまくってたのってそういうことかって思うくらいに、くるりってマジでマジでポップミュージックとしての完成度ヤベェやんって思った。

てか、妻の誕生日会だからビール6缶とレモンサワー1缶飲んでしまった。つまり酔ってる。酔いながら書いてる。

 

ちなみに、くるりは『ワルツを踊れ』以降はきちんと聴いていない。大人になってしまった。

2022年6月10日

今日の昼に外へ出たら気持ちのよい天気で、木の葉の緑はみずみずしく、ベンチに座ってゆっくり空を見上げながら季節を感じたかったけど、周りの目が気になるからやめた。「え、なにしてんの?」っていう周りの目が。

 

朝起きたら、民放のニュースを妻がつけてて、アナウンサーの男が、節電のためにクーラーは28度にと政府が呼びかけてる、みたいなことを言っていて、5年くらい前と比べても、本当に貧しい国になったんだなあと思った。

「夏に28度設定とか暖房じゃん」というネットの声も紹介されて、妻が笑っていた。民放の朝のニュースは洗脳しようとしてる感じで嫌いだから、別に面白くなかった。

 

仕事について。若手はやる気がなく、上は気力がなく、組織としてやばい。

僕は1人だけ、今が脂が乗り切ってて、この今に頑張らないといけないと思っているので、1人やる気に燃えている。やる気に燃えている分、周りがショボく見えてしまう。

 

最近思うのは、仕事って、能力とか頭の良さとか実績よりも、仕事への姿勢とか、やる気とか、周囲への気遣いや優しさとかの方が大事だと思う。

仕事への姿勢とやる気があれば、実績もついてくるし、能力も身につく。

周囲への気遣いや優しさがあれば、毎日を楽しく過ごせる。

(下手なビジネス本みたいなこと書いてるなあ…)

 

仕事なんて労働の対価として金をもらうだけだとは、僕は思わない。

人が集まるコミュニティで、お互いに助け合って、ギスギスしないで仲良く平和に仕事をすることが一番大事だと思う。

 

もちろん、顧客満足も大事だ。顧客満足のない仕事は無意味なブルシット・ジョブだ。やりがいがない。

 

資本主義の時代に生まれて、サラリーマンとして雇われている以上は、ふてくされながら仕事をするよりは楽しんでするべきだと思う。

サラリーマンになりたくないなら料理の腕を磨いてカフェでもひらけばいい。

カフェを開く資産がないなら、諦めてサラリーマンとして仕事を楽しむしかない。

サラリーマンを楽しんでいない人が多すぎる。

民放のニュースなんてくだらないものに洗脳されているより、資本主義自体に洗脳されているほうが100倍マシだ。

 

でも僕だって別に心から仕事を楽しんでるわけじゃない。渋々楽しんでる。そりゃあ金があったらジャズバーでも開きたい。でも金がないんだから仕方ないんだもん。

 

起業とかしてるやつって、金あるからそんなことできるわけで、それで好き勝手に誰にも指図されずやれるんだから、めちゃくちゃ贅沢だと思う。サラリーマンの方がキツいから。

起業の方がキツいって誰か言ってるけど、いくらでも金があるなら起業なんてキツくないやろうね。

起業は裸一貫で孤独で誰も助けてくれないとか誰か言ってるけど、起業してるお前ら、どうせ金持ちやん。キツくないやろ。

 

愚痴ばかり垂れ流してしまったけど、すみません終わります。

2022年5月28日

昨晩は中心街に飲みに行って、深夜4時くらいに帰ってきた^^

朝起きたらもう昼の12時だった^^

妻はめちゃくちゃ不機嫌だった^^

 

挽回するためにお昼を作った。妻が冷蔵庫に何もないから、なんか買ってこないとと言ったけど、僕は冷蔵庫を見て、パスタとニンニクがあったので、レシピをググって鷹の爪なしのペペロンチーノを作った。

過去に一度作ったときは失敗したけど、二度目の今回は成功した。フライパンにオリーブオイルとニンニクとハムを入れてグツグツさせたところに、パスタの茹で汁をお玉で4杯分くらえて、フライパンを振ったら白濁してきて、きちんと乳化させることができた。家族4人分の茹でたパスタ400gをフライパンのソースに絡めて完成。食べながら塩胡椒で味を調整したけど、おいしかった。妻の機嫌も直った。

巨人対日ハムの野球中継を見ながら、スマホをいじってダラダラと穏やかな午後の時間を過ごした。

16時半に髪を切りに行った。前回髪を切ったときに、「いつも通りで」と言ったら全然いつも通りにならずに失敗したので、ネットで髪型を調べて画像を見せてから、耳周りは短めに、前髪はクセが強いので量を多めに残してと言ったら、今回は成功した。

帰ってきてからすぐに夕食を作った。妻は冷蔵庫に何もないと言ってたけど、野菜も豆腐も油揚げも、冷凍の鮭も、いろいろあったので食材は買い足さずに作った。

白菜とサバ缶の旨煮、油揚げの含め煮、焼き鮭、豆腐と油揚げと細ねぎの味噌汁を作った。f:id:na77rita:20220528195645j:image

料理をできるようになったら生活が潤った。アイスコーヒーも淹れれるようになった。あと、花が好きになった。記念日に花を買って、部屋に飾るのが好きだ。

自分の趣味趣向がめちゃくちゃ女性的になってきて、でも生活が楽しいので、自分の内面と自分の行動が一致してきたのだろう。自分はLGBTではないけど、かなり女性的なんだなあとしみじみ思っている。

 

2022年5月27日

今は夜中の0時20分で5月27日になったばかりだ。5月27日になったばかりなのに、2022年5月27日という日付を題して日記を書くので、だいぶ観念的な内容になる。

 

野球が好きになってから、身体を動かすことや、身体そのものの大切さに気づいた。運動に興味が薄かったし、これまではまだ若くて肉体に衰えもなかったので、身体の大切さを軽んじていたのだ。

身体がなければ何もできない。学校や会社に行くこともできないし、本も読めないし、勉強もできない。パソコンの画面を見ることもできない。ハサミで封筒の封を切ることもできない。思考も脳がなければできないかもしれない。ご飯も食べれない。セックスもできない。酒を飲んで酔うこともできない。脳がなければ酔えない。

身体がなければ、本当に何もできない。そんなの当たり前のことだけど、腑に落ちるように深く実感した。

 

去年、祖父と祖母が亡くなったとき、火葬がいちばん印象深かった。肉体を焼いて骨にすること。肉体は物質にすぎないけど、その物質を焼いてしまうことが、こんなにも残された人を悲しくさせるのだから、肉体そのものは、とても大事なものだと思った。

炉に入れる直前の最期と別れのとき、全員が焼香をして祖母の顔を見たあと、最後にもう一度、祖母の子である叔母と母の姉妹が、祖母の元へ行った。

炉に入れる直前、二度と目を開けることのない祖母の顔を見て、堪え切れずに姉妹は声を上げて泣いた。そして祖母は炉に入った。三時間後、祖母の骨だけが残った。その残った骨を、箸で拾って納骨した。この火葬の儀式で、肉や骨や身体について、とても考えさせられた。

 

僕はまだ34歳だけど、なんだかもっと歳をとったような気分だ。まだ34歳なのに、もうすでに身体にガタがきはじめている。前立腺炎になったりして、こうやって持病をいくつも抱えながら生きていくのだろうと思った。

長い人生。恥ずかしい思い出や、消したい過去、悔いなどを抱えていない人はいない。身体的な持病もそれと同じようなものだと思う。

 

ただ、「身体の対に精神がある」という身体・精神の二元論に陥るのも何となく危険な気がしている。僕は運動神経もそんなに良くないし、頭もそんなに良くないので、学生の頃の文武両道のクラスメイトのようになることは、どうやってもできない。

僕は僕のできる範囲で、火葬されるまでこの身体と一緒に生きていく。

 

何を言いたいかというと、身体を大事にして、酒を飲みたいということです。終わります。