歌はくだらない。歌は言葉がある分、音楽よりも単純になる。今日、午後にレジャーに出かけたとき、行きの車でテキトーなJ-POPをかけて、セカオワとか髭ダンの聴いたことない歌を聴いてたら、そんなの聴きたくないと妻に言われ、あなたは今、福山雅治の「家族になろうよ」を聴くべきだと言われて、聴いたことはあるけど、とりあえずかけてから、違うことを話しかけたら、ブチ切れられたので、後できちんと聴くよと言ったけど、ぐちぐちと言われたので、プッチンして、ブチギレ返したら、妻が信号待ちだったのに車のドアを開けて出て行こうとして、子供がやめて!と叫んだので僕も気がつき、妻の頭をふっ叩いて、大声で怒鳴ったら、収拾つかない怒鳴り合いになった。
レジャーなんてクソだ。歌もクソだ。単純な意味なんて、実際に生きる個人を単純化させるだけだ。
見田宗介の「新しい望郷の歌」を読んだ。家族として目指す地点が、レジャーに行って、就職するまで子供を育て上げて、自分は勤め先の市町村で家を建て、そこを住処として死ぬ?そんなのは嫌だ。「新しい望郷の歌」には、そうした1960年代の家の価値観の転換を書いていた。何も考えずに結婚して子供を作ったけど、今になって色々とのしかかってきている。妻との軋轢も絶えない。
レジャーも歌も、どうでもいい。昨日、子供たち2人と僕だけで、図書館に本を借りに行った。図書館の中庭が木が茂った広場になっていて、そこで子供たちが遊びたいと言ったので、僕はベンチに座り、子供たちは葉っぱを拾ったりどんぐりを拾ったりしてた。娘が、僕なところに来て、大きな葉っぱをベンチに置いて行った、僕はそれを繁々と見た。
強い風が吹いた。木の葉がそよぐ音がした。子供たちは楽しそうに走り回っていた。僕は幸せや喜びを感じた。
人が多いところにレジャーに行って、ソフトクリームを人数分の四つ買って食べて、息子がソフトクリームを落として、怒って、手がベトベトになって、疲れた。運転も疲れた。帰ってからすぐに夕食を作った。些細なことでイライラして、また僕が怒ったら、妻がまた逆ギレしてきて、また大声で怒鳴り合いになった。
疲れた。僕はもう当分、歌なんて聴きたくない。言葉のない音楽を聴きたい。