NNNの日記

ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放った紙屑に書かれたような誰も読むはずのない文章

創作:喫茶ポニー(原稿用紙9枚)

喫茶ポニーは、三十年以上前には既に閉店していたという。決して開けられることのないシャッターは、すっかり赤茶色に炭化して、元の色が分からなくなっていた。触ると手に赤茶色が移り、パラパラと表面が剥がれてしまいそうだった。しかし、触れただけで崩れそうな反面、堅牢で何者も寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。

窓には当時はモダンだったような柄のレースのカーテンがかけられている。使い古したボロ雑巾のような色のそのカーテンは、幾重も積み重なった年月とともに埃を吸い込むだけ吸い込み、レースの肌理は灰色に埋められていた。おそらく最初は白で、だんだんとクリーム色に変色して最後に灰色になったのだと思うけど、実際どうなのかは分からない。人の顔を見ただけで、その人がどういう人生を歩んできたか分からないように。カーテン自身も、認知症の老婆のように、自分がかつて何者であったのか忘却しているようだった。

真っ暗な中の様子は、黒い口を開けた洞窟のように何見えなかった。


三上順は、この街の誰もが忘れ去っていたこの喫茶店の存在を見つけた。誰からも顧みられず、打ち捨てられたように縮こまっていた喫茶ポニーがいつかの自分のように見えて、手を差し伸べたかったのかもしれない。

三上は喫茶ポニーの外観を、フィルム一眼レフのキャノンEOS7で撮った。

生まれてから27年間、一度も外に出ることなくずっとこの街で暮らし続けてきて、この喫茶店の存在は分かっていたが、気にとめた事は一度もなかった。


三上は、郷土であるこの街について特に思い入れはない。

彼の人生で何度か東京に行くチャンスはあった。でもその時は東京に行きたいとは思っていなかったり、東京に行きたいと思ったときには、すでに結婚して妻のお腹には子供ができていた。妻と赤子を連れ、転職して違う土地に行くことなど、三上にとっては夢物語だった。

三上はこの街に住み続けなければならない運命なのだと、今は諦めている。頭では諦めているつもりだが、身体は郷土にいながら、心は東京にいた。要は諦めきれていないのだ。

三上は郷土愛など持ち合わせていない。県庁に勤めている彼の友人は、県外で県産品の販売会をやったとか、郷土愛溢れる書き込みをフェイスブックにしているが、彼はそういうのが何となく好きになれなかった。

三上がこの地方の小さな街について最もフラットな眼差しを注げるのは、誰も注目していないようなものに対してだった。反対に、有名な建物とか、名所とか、有名なお店とか、料理とか、名産品とか、そういうものは、もはや商業主義的な色眼鏡を通してしか見ることができなかった。そういうものの殆どは、三上にとっての故郷と何も結びついていなかった。

「考えすぎだ」と周りの人は言った。確かに考えすぎたのかもしれないけれど、一度考えてしまったものを脳ミソから消し去ることはできなかった。

なにもかもが抜かりなく商業主義に絡め取られてしまう中で、自分にできるささやかな反抗は、喫茶ポニーのように誰からも見捨てられたものを、一眼レフのフィルムに収めることだった。三上はそういう写真をインスタグラムに沢山アップしていった。

彼にとっての故郷は、誰からも顧みられない風景と結びついていた。逆に言えば、それは他の誰のものでもない、ただ一人彼だけのものだった。


喫茶ポニーの写真を撮った日、家に帰ってからスマートフォンで「五所川原市 喫茶ポニー」と、期待は持たずに検索窓に文字を打ってみた。すると、個人のブログサイトで、まさに喫茶ポニーについての思い出が書かれた文章を見つけることができた。いとも容易く情報を得ることができて三上は拍子抜けした。インターネットに対して便利さを感じたというより、何となく呆れてしまった。

そのブログは、2000年代初め頃の、簡素な古いウェブデザインでできていた。ブログの更新は2006年7月6日を最後に終わっていた。今から10年以上前だ。そのウェブサイトは、まるで大昔に地球に不時着しそのまま打ち捨てられた宇宙船のように見えた。



【1997年11月8日付の個人構築ブログ「喫茶ポニーの思い出」より(http://www.aomoriyo.kissaponynoomoide.×××)】

僕のふるさと、青森県五所川原市の街中にある喫茶ポニーについて書いてみます。

私は高校生の頃によくこの喫茶店に通って、美味しいコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲みながら、勉強をしたり、店に流れる音楽を聴いたりしていました。音楽はいつもクラシックがかかっていました。クラシック以外の音楽がかかることはありませんでした。聞くところによると、お店の経営者はクラシックが大好きなそうで、その知識は私などには推し量ることができないほど相当なものだったようです。お店のレジの後ろにはクラシックのレコードが沢山あり、色々なレコードジャケットが見えるように飾られていました。だいたい、その時にかかっていたレコードを飾っていました。私はクラシックの知識は当時も今もほとんどないのですが、楽曲とジャケットが、今でも記憶の中でバラバラに混在しています。なにがマーラーで、どれがチャイコフスキーかは知らないのですが。

私は喫茶ポニーに足繁く通うくせに、ロックやポップスしか聴かない学生でした。お気に入りははっぴいえんど村八分レッド・ツェッペリンでした。でも私はクラシックばかりをかける喫茶ポニーという場所が好きでした。

私が高校生の頃は、喫茶ポニーは学生や若者たちで溢れていました。当時は喫茶店というのはデートコースの定番だったのです。映画館の後で喫茶店に行くのがお決まり。1960年代、五所川原の街にも、いくつもの映画館と喫茶店があったものです。その後70年代、80年代と時代を経るに連れて、若者は喫茶店からいわゆるカフェへと移っていき、喫茶店はかつての勢いは失って行きました。

喫茶ポニーがお店を畳んだのは、84年ごろだったと思います。といっても、その頃私はすでに就職して東京に住んでいたので、帰省したある日に、閉店してることを確認しただけでした。閉店より何年も前から、私は喫茶ポニーに入っていませんでした。


ここで私が言いたいことは、人はすぐに、「想い」を忘れてしまうということです。高校生の頃あれほど好きだった場所なのに、その街から離れてしばらく経つと、大切だった思いも何もかも忘れてしまうということです。どこか別な土地へ移ったり、学校を卒業して、友人と離れたりすると、どれだけ硬い絆でも綻びが生じて、最後にはバラバラにほどけてしまうのです。

「またいつだって会える」そんなことを言っても会う回数は尻すぼみしていき、最後にはゼロになるのです。「またいつだって会える」のは単なる可能性です。

「会おうと思えばまたいつだって会える」のは確かだけど、「会おうと思う」こと自体、完全に自分の意思で決定できるものではないのではないか。そんなことを最近思うのです。


だから自分が今、どこで、誰と一緒にいるのか。それが何よりも大切なことなのではないかと、私は思うのです。



エピローグ(或人の日記より)


1978年3月18日 晴れ

喫茶ポニーの扉を開いた。店内に踏み入ると、コーヒーとタバコのいい匂い。誰かが食べているナポリタンの、ケチャップや玉ねぎの匂いが胃を刺激し、僕はゴクリと唾液を飲み込んだ。

今日は半分くらいは席が埋まっていた。タバコをくゆらせているアベック。気取って政治か文学談義をしている三人の男子学生たち。文庫本を読んでいる若い女性。文庫本にカバーはない。肌色の背表紙に、茶色のスピンが際立って見えた。

耳を澄ますと、もちろんクラシック音楽がかかっている。僕は二階に登り、空いている二人掛けのテーブル席に座った。目の前の誰もいない席を見つめて、今日は一人でここにきたことを再認識した。

メイドが氷の入ったグラスの水とメニュー表を運んできた。

「いらっしゃいませ」と言いながら、白い紙のコースターを僕の右腕に近いところに置き、その上に氷の入ったグラスを置いた。カランカランと小気味のいい音が鳴った。差し出されたメニュー表を僕は手に取った。

「ご注文が決まりましたらお呼びください」と言ってメイドが立ち去ろうとしたので、僕はすかさず、メニューを開かずにナポリタンを注文した。女性は一言「かしこまりました」とだけ言って、紙に記しを書き付けて去っていった。

四月には、僕は就職して東京へ行く。メイドが立ち去るそばからナポリタンを注文したのは、彼女を自分から引き留めたかったからかもしれない。遠くに立ち去ってしまうのは僕の方なのに。


僕は喫茶ポニーが好きだ。生まれ育ったこの街が好きだ。

上京まであと少し。そろそろ引越しの準備も本格的に進めなければ。土曜日は史彦に会いに弘前まで行く予定だ。

 

終わり

 

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※この短い小説は、iPhoneのメモ帳で2019年に書いていたものです。メモ帳を眺めてたら発掘したので、せっかくなのでそのままここにコピペしました。