NNNの日記

ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放った紙屑に書かれたような誰も読むはずのない文章

2022年1月15日

コーヒーがやたらと好きになって、ついに職場でもハンドドリップをすることにして、カルディなどで買ったコーヒーの粉を職場に持って行き、ハリオのプラスチックのドリッパーでコーヒーを入れるようになった。

今まではドリップパックのコーヒーをスーパーなどで買ってたけど、ハンドドリップの方がおいしいし、値段もあまり変わらない。

デスクワークとコーヒーは相性がいい。緑茶でも紅茶でもなく、コーヒーがやはり相性がいい。

家でもハンドドリップでコーヒーを飲む。

コーヒーと読書はとても相性がいい。焼き鳥とビール、ハンバーガーとコーラくらいに相性がいい。

コーヒーが読書を引き立たせ、読書がコーヒーを引き立たせる。むしろコーヒーは生活そのものを引き立たせる。一口飲むことでほっと一息チルアウトできる。

健康第一。正月に前立腺炎で全く動けなくなってそう実感した。

前立腺炎なので正月なのに酒を止められ、飲めなかった。酒が飲めない正月など何の意味もない。仕事してる方がマシなくらいだ。

「酒を飲むと」いう行い自体、健康でなければできない。もっというと、酒を飲むということはとても身体的な行いだったんだなあと思った。酒を飲む身体があって、はじめて酔うことができる。

そう思うとやっぱり、運動って大事なんだなあとつくづく思った。

コーヒーと読書、デスクワークもいいけど、ほどほどにしてランニングもする。ランニングに合うのはなんだろう。自分にはそれが欠けている気がする。

 

2022年1月11日

とりとめのない日記を書く。

夏目漱石の「三四郎」を角川文庫で読んでいる。iPhoneKindleで、無料の青空文庫でダウンロードして読んでいたのだけど、この間近所のTSUTAYAに行ったときに、角川文庫の装丁がかわいらしくて欲しくなったので、つい買ってしまった。

やっぱり結局、Kindleで読むと文量も分かりにくいし、紙の方がいい。

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三四郎、それから、門。

三四郎夏目漱石の初期三部作の一作目。三つとも読んだことがなかったので読んでいる。

まだ読んでる途中なので、作品についての感想は書かない。

代わりに小説についての雑感を書く。

古い時代の小説は、その小説の舞台のビジュアルを知らなければ想像できない。三四郎の舞台は東京で、大久保とか本郷とか、現在と同じ地名が出てくるけど、現在と全く違う風景のはずだ。その風景は資料を調べればわかるとは思うが、とりあえず読みながら想像することになる。その読者の想像と、作者の想像のギャップが大きければ大きいほど、読者は作品が読みにくくなる。作者が文章にわざわざ書いていないものを、読者が補完できないから。

ドストエフスキーの「罪と罰」は19世紀のロシア・サンクトペテルブルクが舞台だし、カポーティの「遠い声 遠い部屋」は1940年台のアメリカの片田舎が舞台で、その風景を知らなければ読みにくい。

その読みにくさを乗り越えつつ作品の核に触れることができたときに、現実では得られない時空を超えた体験を味わえるのだろう…。

 

最近僕は、小説よりもノンフィクションが好きだ。

アウシュビッツの地中から70年越しに死者が書き残したメモが見つかったとか、秋葉原事件の犯人の成育歴や事件に至った経緯とか、ノンフィクションやドキュメンタリーが興味深い。

そういう意味合いでの事件が何も起こらない小説は、高等遊民の日常の心情という風情で、最近はあまり好みではない。

現代の日本文学はそういう何も起こらない小説が多いようで、なんとなく興味を失ってきた…。あまり読んでないから分からないけど…。

 

創作:喫茶ポニー(原稿用紙9枚)

喫茶ポニーは、三十年以上前には既に閉店していたという。決して開けられることのないシャッターは、すっかり赤茶色に炭化して、元の色が分からなくなっていた。触ると手に赤茶色が移り、パラパラと表面が剥がれてしまいそうだった。しかし、触れただけで崩れそうな反面、堅牢で何者も寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。

窓には当時はモダンだったような柄のレースのカーテンがかけられている。使い古したボロ雑巾のような色のそのカーテンは、幾重も積み重なった年月とともに埃を吸い込むだけ吸い込み、レースの肌理は灰色に埋められていた。おそらく最初は白で、だんだんとクリーム色に変色して最後に灰色になったのだと思うけど、実際どうなのかは分からない。人の顔を見ただけで、その人がどういう人生を歩んできたか分からないように。カーテン自身も、認知症の老婆のように、自分がかつて何者であったのか忘却しているようだった。

真っ暗な中の様子は、黒い口を開けた洞窟のように何見えなかった。


三上順は、この街の誰もが忘れ去っていたこの喫茶店の存在を見つけた。誰からも顧みられず、打ち捨てられたように縮こまっていた喫茶ポニーがいつかの自分のように見えて、手を差し伸べたかったのかもしれない。

三上は喫茶ポニーの外観を、フィルム一眼レフのキャノンEOS7で撮った。

生まれてから27年間、一度も外に出ることなくずっとこの街で暮らし続けてきて、この喫茶店の存在は分かっていたが、気にとめた事は一度もなかった。


三上は、郷土であるこの街について特に思い入れはない。

彼の人生で何度か東京に行くチャンスはあった。でもその時は東京に行きたいとは思っていなかったり、東京に行きたいと思ったときには、すでに結婚して妻のお腹には子供ができていた。妻と赤子を連れ、転職して違う土地に行くことなど、三上にとっては夢物語だった。

三上はこの街に住み続けなければならない運命なのだと、今は諦めている。頭では諦めているつもりだが、身体は郷土にいながら、心は東京にいた。要は諦めきれていないのだ。

三上は郷土愛など持ち合わせていない。県庁に勤めている彼の友人は、県外で県産品の販売会をやったとか、郷土愛溢れる書き込みをフェイスブックにしているが、彼はそういうのが何となく好きになれなかった。

三上がこの地方の小さな街について最もフラットな眼差しを注げるのは、誰も注目していないようなものに対してだった。反対に、有名な建物とか、名所とか、有名なお店とか、料理とか、名産品とか、そういうものは、もはや商業主義的な色眼鏡を通してしか見ることができなかった。そういうものの殆どは、三上にとっての故郷と何も結びついていなかった。

「考えすぎだ」と周りの人は言った。確かに考えすぎたのかもしれないけれど、一度考えてしまったものを脳ミソから消し去ることはできなかった。

なにもかもが抜かりなく商業主義に絡め取られてしまう中で、自分にできるささやかな反抗は、喫茶ポニーのように誰からも見捨てられたものを、一眼レフのフィルムに収めることだった。三上はそういう写真をインスタグラムに沢山アップしていった。

彼にとっての故郷は、誰からも顧みられない風景と結びついていた。逆に言えば、それは他の誰のものでもない、ただ一人彼だけのものだった。


喫茶ポニーの写真を撮った日、家に帰ってからスマートフォンで「五所川原市 喫茶ポニー」と、期待は持たずに検索窓に文字を打ってみた。すると、個人のブログサイトで、まさに喫茶ポニーについての思い出が書かれた文章を見つけることができた。いとも容易く情報を得ることができて三上は拍子抜けした。インターネットに対して便利さを感じたというより、何となく呆れてしまった。

そのブログは、2000年代初め頃の、簡素な古いウェブデザインでできていた。ブログの更新は2006年7月6日を最後に終わっていた。今から10年以上前だ。そのウェブサイトは、まるで大昔に地球に不時着しそのまま打ち捨てられた宇宙船のように見えた。



【1997年11月8日付の個人構築ブログ「喫茶ポニーの思い出」より(http://www.aomoriyo.kissaponynoomoide.×××)】

僕のふるさと、青森県五所川原市の街中にある喫茶ポニーについて書いてみます。

私は高校生の頃によくこの喫茶店に通って、美味しいコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲みながら、勉強をしたり、店に流れる音楽を聴いたりしていました。音楽はいつもクラシックがかかっていました。クラシック以外の音楽がかかることはありませんでした。聞くところによると、お店の経営者はクラシックが大好きなそうで、その知識は私などには推し量ることができないほど相当なものだったようです。お店のレジの後ろにはクラシックのレコードが沢山あり、色々なレコードジャケットが見えるように飾られていました。だいたい、その時にかかっていたレコードを飾っていました。私はクラシックの知識は当時も今もほとんどないのですが、楽曲とジャケットが、今でも記憶の中でバラバラに混在しています。なにがマーラーで、どれがチャイコフスキーかは知らないのですが。

私は喫茶ポニーに足繁く通うくせに、ロックやポップスしか聴かない学生でした。お気に入りははっぴいえんど村八分レッド・ツェッペリンでした。でも私はクラシックばかりをかける喫茶ポニーという場所が好きでした。

私が高校生の頃は、喫茶ポニーは学生や若者たちで溢れていました。当時は喫茶店というのはデートコースの定番だったのです。映画館の後で喫茶店に行くのがお決まり。1960年代、五所川原の街にも、いくつもの映画館と喫茶店があったものです。その後70年代、80年代と時代を経るに連れて、若者は喫茶店からいわゆるカフェへと移っていき、喫茶店はかつての勢いは失って行きました。

喫茶ポニーがお店を畳んだのは、84年ごろだったと思います。といっても、その頃私はすでに就職して東京に住んでいたので、帰省したある日に、閉店してることを確認しただけでした。閉店より何年も前から、私は喫茶ポニーに入っていませんでした。


ここで私が言いたいことは、人はすぐに、「想い」を忘れてしまうということです。高校生の頃あれほど好きだった場所なのに、その街から離れてしばらく経つと、大切だった思いも何もかも忘れてしまうということです。どこか別な土地へ移ったり、学校を卒業して、友人と離れたりすると、どれだけ硬い絆でも綻びが生じて、最後にはバラバラにほどけてしまうのです。

「またいつだって会える」そんなことを言っても会う回数は尻すぼみしていき、最後にはゼロになるのです。「またいつだって会える」のは単なる可能性です。

「会おうと思えばまたいつだって会える」のは確かだけど、「会おうと思う」こと自体、完全に自分の意思で決定できるものではないのではないか。そんなことを最近思うのです。


だから自分が今、どこで、誰と一緒にいるのか。それが何よりも大切なことなのではないかと、私は思うのです。



エピローグ(或人の日記より)


1978年3月18日 晴れ

喫茶ポニーの扉を開いた。店内に踏み入ると、コーヒーとタバコのいい匂い。誰かが食べているナポリタンの、ケチャップや玉ねぎの匂いが胃を刺激し、僕はゴクリと唾液を飲み込んだ。

今日は半分くらいは席が埋まっていた。タバコをくゆらせているアベック。気取って政治か文学談義をしている三人の男子学生たち。文庫本を読んでいる若い女性。文庫本にカバーはない。肌色の背表紙に、茶色のスピンが際立って見えた。

耳を澄ますと、もちろんクラシック音楽がかかっている。僕は二階に登り、空いている二人掛けのテーブル席に座った。目の前の誰もいない席を見つめて、今日は一人でここにきたことを再認識した。

メイドが氷の入ったグラスの水とメニュー表を運んできた。

「いらっしゃいませ」と言いながら、白い紙のコースターを僕の右腕に近いところに置き、その上に氷の入ったグラスを置いた。カランカランと小気味のいい音が鳴った。差し出されたメニュー表を僕は手に取った。

「ご注文が決まりましたらお呼びください」と言ってメイドが立ち去ろうとしたので、僕はすかさず、メニューを開かずにナポリタンを注文した。女性は一言「かしこまりました」とだけ言って、紙に記しを書き付けて去っていった。

四月には、僕は就職して東京へ行く。メイドが立ち去るそばからナポリタンを注文したのは、彼女を自分から引き留めたかったからかもしれない。遠くに立ち去ってしまうのは僕の方なのに。


僕は喫茶ポニーが好きだ。生まれ育ったこの街が好きだ。

上京まであと少し。そろそろ引越しの準備も本格的に進めなければ。土曜日は史彦に会いに弘前まで行く予定だ。

 

終わり

 

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※この短い小説は、iPhoneのメモ帳で2019年に書いていたものです。メモ帳を眺めてたら発掘したので、せっかくなのでそのままここにコピペしました。

縄文の土偶について

2021年7月、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産登録され、青森県において一部の界隈では縄文が盛り上がっている。

「一部の界隈」の中にはいないが、僕も縄文には思い入れがある。縄文は歴史の中で一番好きな時代だし、大学生の頃に縄文の講義をとって石器の名前を覚えてテストに臨んだ経験があるし(もちろん今では一つも覚えていない)、小学館の「全集日本の歴史」の第一巻の縄文時代の巻を図書館で借りて読んだこともある(買ってはない)。

 

全集 日本の歴史 全巻セット

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先日、職場の後輩と雑談していて、「縄文の土偶ってなんのために作られたんですかね?」とたずねられたので、縄文好きの僕は以下のように答えた。

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現代の僕たちからみると、縄文人土偶のように、オモチャみたいな無意味なものを作っていたというのが信じられなかったり、不思議に思ったりする。

発掘されて展示されるものが、石器のように、縄文人の飯の種になっていた実用的なものであれば、その存在を素直に納得できる。

しかし、現代の僕たちだって、無意味なものや無用なものが自分の周囲にたくさんあるし、自分の頭の中や、自分の行動の動機さえ無意味であったりする。僕らはとても多くの無意味に囲まれている。

もしも僕らが実用的なものにばかり囲まれていて、実用的な動機でしか行動できないとしたら、それはロボットと同じで、人間の喜びや幸福はどこにも存在しない。

土偶というのは、何千年も前の人間でも無意味なものを作っていたという意味で、現代の僕たちと変わるところはないのだと、しみじみと実感できるものなのだ。

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上記のようなことを言ったところ、まさかこんなマジレスが返ってくると思っていなかっただろう職場の後輩から、

「めちゃくちゃ頭いいようなこと言うじゃないですか!」

と言われて、仕事でケアレスミスばかりする僕も、仕事とは全く関係ないことだったが、鼻高々になった。