語られない文章について
Twitterやブログで世界中に文章を公開できるけど、語られることと語られないことがある。
僕もTwitterやブログで書いていることは、読んでる人は誰も得しないような、ほとんど自己顕示的なものだったりする。他の人からしたらゴミのようなものだ。どれだけ上手くいっても1本12円のうまい棒くらいの価値しかない。
面白くてもつまらなくても、僕がTwitterやブログで書くのは、少なくとも世界中に向けて語ることができる内容だ。
でもおそらく本当に面白いのは、世界中に向けて語ることができない秘密だったり、インターネットではお目にかかれないような心の奥深くの感情について書かれた文章だ。
僕はそれを書きとどめておきたいけど、インターネットで書くのは恥ずかしいので、結局は別建てで日記帳なりEvernoteに書くかもしれない。
他人のTwitterやブログでも、この人は逆に何を語っていないんだろうと想像してしまう。
そもそもTwitterもブログもやってない人だっている。
語られることのなかった無数の文章に思いを馳せる。
だから資産も何もない、地元の地方国立大を出ただけの貧乏人で、仕事や家事など生活するだけで精一杯だけど、なるべく筆まめに文章を書きたい。
2022年2月6日
昼に焼きそばを作ったときに、いつも買っているウインナーを切ったら、明らかにウインナーが短くなってて、原材料高騰の煽りを実感した。
そして誰のせいでこうなっているんだろうと思って、とりあえず資本家と政治家のせいにしておいた。
平民に負担を強いて、自分らの富を維持しようとしてるんだろうなあと。
フライパンで焼きそばを焼きながらそんなことを考えた日曜日の昼下がりだった。
午後は髪を切りに行ってサッパリした。
髪を切った帰りにコンビニで朝日新聞を買った。パラパラとめくってから放置して、ビールを飲みながら本を読んで、5時くらいに夕食の支度に取り掛かった。妻と子供たちは買い物に出掛けてて、6時半くらいにやっと帰ってきた。
夕食に、豚バラと白菜の旨煮と、茹でたブロッコリーと、切ったトマトと、ネギとわかめの鶏がらスープを作った。
ご飯を食べて、お風呂に入って、子供たちが寝て、やっと自由な時間になって、放置していた朝日新聞をまためくる。
結局もう読む時間がないので、興味がある記事を手でビリビリ破いて、マスキングテープでトイレの壁に貼った。
最近そういうライフハックを生み出したので、とてもとても数少ない、これを読んでいる人にもお勧めします。
二面丸々使ったウクライナ情勢についての記事と、フォーラムのマイナンバーカードについての記事を、デカかったけどトイレの壁に貼った。
今日は結局、ビールは午後4時くらいに一本飲んだだけだった。
2022年2月5日
最近はクラシックやジャズばかり聴いている。ツィメルマンのショパン四つのバラードや、シフのメンデルスゾーン無言歌集など。
しかし、たまにロックを聴くとよく聴こえる。今日、昼食にチャーハンを作りつつビールを飲みながら、ペイヴメントの『Terror Twilight』を聴いたらめちゃくちゃよかった。
読書といって小説ばかり読むより、歴史書とか哲学書も読むと全く違う刺激や感銘を受けるのと同じように。
昼にチャーハンの素でチャーハンを作りながら、居間にいる妻や子供に目をやり、話しかける。子供を育てること。子供がどんな人間になるかはわからないけど、どんな人間であろうと存在自体が愛おしい。そんなことを考えながら居間に目をやる。
一方で、自分の抑えられない性的衝動などもある。そういうのはおそらく誰しも持っている。そこの折り合いをつけること。家庭を持ちながらも幸せそうに見えない既婚の人たちは、その折り合いをつけられていないのかもしれない。
住宅メーカーのコマーシャルのような温かい家庭の世界にいるだけでは、人間は人間として満足できるものではないんじゃないか。少なくとも僕はそうだ。
そうは言いつつ、僕は子供のことをめいいっぱい可愛がっている。
でも孤独も好きなタチなので、どうしても1人の時間に浸ってしまう。家庭の中で1人の時間を作れるのが、台所での炊事だったりする。だから炊事が好きだ。台所に立ちながら缶ビールを煽ると、それはもうパーフェクトだ。
西村賢太さん死去。人はいつか死ぬ。
それでも早すぎる死は「人はいつか死ぬ」という訳知り顔した摂理から逸脱するため衝撃を受ける。例えばそれが肉親などなら、立ち直れないほどの精神的な傷を負うだろう。
2022年2月1日
真夜中に日記を書き殴る。
今日、石原慎太郎が亡くなった。僕は石原慎太郎の小説自体は読んだことはない。
もしも石原慎太郎が政治家になっていなければ、亡くなってもここまでメディアで騒がれることはなかっただろう。
仮に、昨年亡くなった小説家の古井由吉が政治家でもあったら、亡くなったときにもっと騒がれていた。
だからなんだってわけじゃないけど、メディアというのはなんだか不思議なものだなと、もはやファンタジックにさえ感じられる。
一時期、新聞記事やネットニュースばかりを、読みまくってたときがあった。あまりにも読みまくりすぎてうんざりしてきた。
村上春樹が確かねじまき鳥クロニクルかの小説で、「新聞記事なんて、いつも何を読んでも同じようなことが書かれているだけだ」というニュアンスのことを書いていたが、僕も記事を読みまくってうんざりしたときに、そのことが自分なりに理解できた。
石原慎太郎が亡くなった。人はいつか亡くなる。当然のことだ。
いいことも起これば、悪いことも起こる。当然のことだ。
報道に決して取り上げられることのないが、名もない誰かにとって重大なことは、毎日のように起こっている。
そういうことに思いを馳せてみると、報道されていることなんて、この地球上で起こっていることの極々一部なんだなあと思う。
記事の中身はどうでもいい。記事から感じ取れるものが、日常生活において毎年同じ年間行事を繰り返すように、変わり映えしないのだ。
昼休みにはよくYahoo!ニュースやNHKニュースウェブを開く。朝ご飯に食パンを食べるようなものだ。Twitterもそうだ。
心に残る報道なんて滅多にない。報道なんて見てないで本を読もう。
2022年1月29日
コロナがいよいよ自分の身近にも近づいてきている。
仮にオミクロンに罹ったとして、オミクロンの症状自体が恐ろしいというより、仕事が回せなくなることの方が恐ろしい。
資本主義における社会人として、完全に洗脳完了してしまっているような自分に少し嫌気がさす😇
なんだか最近すごく思うのは、労働は、人間関係を悪くさせたり、憎み合ってまですることじゃないんじゃないかっていうこと。
あくまで業績アップが目的で、幸福を目的にしないところに資本主義の悲喜劇的な異常性を感じる昨今である。
映画「ドライブ・マイ・カー」感想
ドライブ・マイ・カーという題名のとおりに、真っ赤なSAABという車が映画の中心にあった。
SAABのフロントガラス越しに、移り変わる風景。われわれ観客も、家福と渡利みさきとともに空間を移動する。
美しい瀬戸内の海。音を吸い込むような沈黙を生む北海道の雪。何百万人もの都市生活者の、抱えきれないほどの私情を内包する東京の夜。
感情移入というか、狭い車内をともにすることで、彼らと親密になるような感覚。
そして大切な愛車を持つことの喜びが分かる。「オン・ザ・ロード」のように、単純に空間を移動することの喜びのようなものがあった。
この映画で特徴的なのが、棒読みのセリフ。過多な感情を排除しているというより、もはや感情をほとんどなくして、上手な役者の演技という、映画のレトリックに対するアンチを感じた。役者の上手な演技に頼りたくなかったのかなと。
レトリックを排除して、テキストの本質を浮かび上がらせる、というようなセリフが劇中であったと思うが、そういうことなのだろうか。
また、小津安二郎の作品のような、現代の俳優と比べると下手にも思えるが味のある、あのような演技を思い起こさせた。
まあ、僕の拙い筆力では映画の批評など書けないので、単純に感想を書く。
3時間もの長丁場なので、軽い気持ちで見る映画ではない。見終わったあとは心地よい疲労感があった。
村上春樹が原作なのだが、短編小説の「ドライブ・マイ・カー」を、濱口竜介監督の脚本により繋ぎ目なく引き伸ばされ、脚色されて、村上春樹が原作であることを忘れさせるくらいに、濱口竜介の作品になっていた。
他者を理解することの難しさ。あるいわ不可能性。自己や他者の抱える病。病は誰もが抱えている。
僕だって病を抱えている。自分は抱えていないと思っているような人ほど危険な病を抱えていたりする。病は、風邪を引くくらいに身近に認められるものだと思う。
そうした人間が社会で交錯することで、互いに傷つけたり、傷つけられたりする。それは回避できない。
僕たちがそうした病や傷を回復させるためには、まずはその病や傷から目を逸らさずに見つめることが必要なのだ。
家福は、SAABでの旅時の果てに傷を癒やし、希望を見出す。
失ったものは二度と戻らない。それでも喪失を抱え、それを乗り越えながら、僕たちは生きていくしかない。
家福にとってSAABという愛車と、SAABが人格化したような渡利みさきという旅の相棒がいたことは幸福だった。
いいこともあれば悪いこともある。
自分の人生や自分の病まで炙り出されたような、とても深い映画体験だった。
2022年1月19日「街角ピアノ 弘前」感想
NHKの街角ピアノという番組で、以前、地元の弘前が取り上げられた。その再放送を録画していたものを、2週間前くらいに見た。その感想を、なぜか今日書く。
街角ピアノは、駅や空港などに設置されているピアノを行き交う人が弾いているのを流しつつ、どうしてその曲を弾いたのかとか、どうしてピアノを弾いているのかとか軽くインタビューをする、ドキュメンタリーのようなタッチの番組だ。
その番組が、ぼくの地元弘前を取り上げたのでうれしい気持ちで見た。
まず、最後に弾いたおじさん(60歳代)が、めちゃくちゃ良かった。作曲家ということで、弘前には息子と旅行に来たということで、若い頃にバーでよく弾いたというペドロ&カプリシャス「五番街のマリーへ」をジャズのように弾いた。
キース・ジャレットの『The Melody At Night, with You』を彷彿とするような美しく感傷的な演奏だった。
ペドロ&カプリシャス「五番街のマリーへ」のオリジナルを聞いたことはなかったので、あとで聞いてみたところ、いかにも古い日本のポップスという感じがして、拍子抜けしてしまった。断然、作曲家のおじさんが弾いたピアノの「五番街のマリーへ」のほうがカッコいいし心に沁みた。おじさんは飄々と軽々と、クールに弾いていたのだけど、十分に音に情感が宿っていて、カッコよかった。
それから、最後の前に弾いた高校生の女の子のバッハ「トッカータ」が超絶上手くてすごかった。この収録の2週間後とかに、東京のコンクールで弾く曲ということだった。
夢はピアニストだけど、ピアニストの世界で生き残るのは難しいから、自分だけの音楽を追求したい、というようなことを女の子は言っていた。
夢を見ているわけでもなく、自分の実力を客観視して受容して、かつ自分がどう有りたいかを明確にしていて、高校生なのにすごいなあと平伏した。
もう一つ印象深かったのは、ネガティブな感想になるのだが、ベートーヴェンのピアノソナタ月光の第1楽章を弾いていた大学生の男性が、夜の駅で悦に浸って弾いていたのが、申し訳ないですが、なんかよくなかったです。すみません。
やっぱり作曲家のおじさんのように、クールに弾くのがいいと思います!!!(えらそうにすみません)
ちなみにぼくも、もしもピアノが弾けたなら、バッハの平均律第一巻の前奏曲ハ短調を駅で弾いてみたい。
ピアノの音色は古びないのがいい。ペドロ&カプリシャス「五番街のマリーへ」のように、ポップスは宿命的に古びていく。レコーディングの仕方とか、歌い方とか、なにが古くなるのか分からないけど、とにかくどんなにカッコいい音でも、必ず古くなる。
ビートルズでもニール・ヤングでもレッド・ツェッペリンでも、昔の音楽だということが感覚的に分かる。
食べ物や生物などの有機物のように、時間が経つと形を崩していくように古くなるのだ。もちろん、古いから駄目というのではない。ただ単に古いということが分かるという。
ポップスは音楽形態として、流行り物に過ぎないなと思う。一方で、時代と密接にリンクする分、ノスタルジーを喚起するものでもあると思う。青春時代によく聞いたポップスは、その個人の中で、永遠にメロディーが流れている。ポップスのそんなところが素敵だ。
結論は特にないけどそろそろシャワーを浴びて寝ないといけないので終わります。